三途の川を渡った向こう側【あなたの知らない「あの世」②】
こんにちは〜!新倉イワ子です。
さて前回、【死後の世界には段階がある】で、死後、私たちは能面のような顔になり心の動きづらい状態となる、と書きました。
この様子はかつて宜保愛子さんが語った死後の世界にいる霊体の様子と酷似しているのです。
宜保愛子さん(享年71)とは、80年後半から稀代の霊能者としてテレビで取り上げられ注目を浴びた作家です。
宜保さんのテレビを通してでもわかる人柄の良さ、欲のなさ、そして落ち着いた独特のトーンの語り口は、当時盛んであった心霊番組では引っ張りだこでした。
ところが持ち上げてから叩き落とすのは今も昔も変わらぬメディアの悪い癖。90年代には「インチキ」「偽物」と叩かれ、彼女は表舞台から消えていくこととなりました。しかし静かに暮らせた晩年の日々を宜保さんはとても喜んでいたと思います。
だって彼女の純粋さはテレビという醜い世界には、向いていなかったから。
「三途の川」までは本物のあの世ではない
そんな宜保さんですが、臨死体験を何度もされているそうです。
臨死体験話ではよく出てくる「三途の川」。宜保さんも若い頃高熱を出した時、魂が幽体離脱し、自分がふとんで横になっている姿、心配そうにしているお母さん、往診にきたお医者さんの姿を天井から見ていたそうです。
そのあと宜保さんの魂は家の玄関を出て、何かに導かれるように三途の川の手前までいったそうです。三途の川の川幅は5メートルくらい、緑とも青とも言える水の色で、そこには魚一匹いないんだそうです。
川の向こう側はこんもりとした赤土のもられた世界が広がっており、宜保さんはどうしても向こうに渡りたいという感情に囚われたそうです。
が、赤土の方から亡くなった弟さんが必死に身振り手振りで「来ちゃダメだ!」と宜保さんに訴えてくる。と、同時に「愛子!しっかりして!愛子!!」というお母さんの声がどんどん耳に大きくなり、宜保さんは「何よ、お母さん、うるさいなぁ…」と思いながら仕方なく川を背にすることに。すると次に目を覚ました宜保さんの魂は肉体に戻れていたんだそうです。
その時の川向こうの赤土側が本物のあの世。川の手前までが私が前回のブログで言っていた〝あの世とこの世の狭間〟です。
宜保愛子さんの語る死後の世界
さて、ここからが死後の世界の本番。
では宜保さんが語る三途の川の渡りきった先、本物の死後の世界とはどのようなものでしょうか。
「霊界ではみな、無味乾燥な赤土の広がる地を、能面のような顔になってひたすら一人でトボトボと歩き続ける。」と宜保さんは言います。赤土のなだらかな丘も見えるんだそうで、どうやらそれは狭い空間というわけではなさそうですね。
そしてそれは「50年から100年続く、再生に向かっての長い長い歩くだけの旅」になるのだそうです。
宜保さんがまるでそれを見てきたかのように語れる理由は、亡くなった弟さんが彼女の見えにくい左目に死後の世界の映像を見せ、その世界について語りかけてきたからなんだそうです。
宜保さんは弟さんに「そんなにずっと歩いていて、足は痛くないの?疲れたりしないの?」と尋ねたそうです。弟さんは「痛くないし、まったく疲れない。」と答えたそうです。
確かに肉体の感覚がありませんから、痛みもなければ疲れるという感覚もないはずです。
というわけで、霊界とはお花畑もない、音楽もない、美味しいご馳走も、楽しいおしゃべりをする相手も、知った人と笑い合うということもないようです。
なんとも寂しくてガッカリなお話でしょう、、、?
でもこれを寂しいと感じるのは、今現世を生きている私たちの感覚です。あの世では寂しいなどという感覚は全くありません。
死後の世界には諸説ある
とは言え、死後の世界には諸説ありますよね。私も数年前、テレビで「死後の世界」の特集番組を見ました。その番組では死後の世界は、まばゆい光に包まれ、花が咲き乱れ、美しい音楽が聞こえていて、自分の一番良かった歳に戻れて、大好きな人たちに囲まれて楽しく暮らす、というまさに私たちの理想とする天国が描かれていました。
それを見て、天命を全うすればそんなご褒美が待っているのなら、死ぬのは悲しいことではないんだなぁ、と思えました。
だけど、うちの子供達が小学生だった頃、ユーチューブで宜保さんの番組をたまたま見ていて、私は食器を洗いながらでしたが耳だけでそれを聞いていたんです。宜保さんの声、「懐かしいなぁ」と思いながら。
そこで聞こえてきたのが、「死後の世界では赤土だけの道を能面のような顔になって心の動きにくい状態で……」のくだり。
その瞬間、祖父の〝霊界の気〟に巻き込まれ、トランス状態になった過去を思い出し、「あぁ、そうか。死後の世界とは(残念ながら)宜保さんの言っている方だ……」と直感したのです。
死者にお花やお水を手向ける理由
同時になぜ墓前にお花を手向けるのか、意味がわかりました。
死後の世界には〝生〟を感じるものが何もありません。草木一本生えない赤土の世界が延々と続くのです。
そこに生き生きとしたお花が目の前に現れたら、心が和むはずです。霊界では表情ひとつ変えることもできませんが、心はかすかに、しかし確実に動いています。
例えば水を一杯墓前に置くのも、決して喉は乾くことはありませんが、潤いのない乾燥の世界で水を見ることで目から心が潤います。
人類の歴史は気が遠くなるほど長く、その中では死後の世界が無味乾燥の地の旅であることを知っていた人がいたはずです。その結果、死者の旅が少しでも潤いのあるものにしてあげたいと願う、生ける者から亡くなった者への愛の結果がお花を手向けるといった風習ではないかと。
もし死後の世界がお花の咲き乱れる光まばゆい世界であったなら、墓前に「お花を、お水を…」という発想になったかどうか……。
パラダイスとは〝この世〟のこと
ま、まぁ、その辺も含めて私の勝手な想像なわけですが。笑笑
でも例えば、例えばですよ?死後が宜保さんのいう世界の方だったとして。
結局ね、パラダイスとはこの現世のことなんですよ。
私が体験したトランス状態に比べて、現世では思いっきり笑える、友と語り合える、おいしいものを食べられる。
鳥のさえずり、流れる滝の音、まばゆい緑、美しい音楽、素晴らしい芸術、夢を追いかけるひたむきな心……
これらを楽しめる今をパラダイスと呼ばずして何時をパラダイスというのでしょう?
辛い、悲しい、腹が立つ、妬み……生きていればたくさんのネガティブな感情が湧き出てくるものですが、その感情に囚われ続ける過ごし方はとても勿体無いです。だって今この瞬間も、死後の世界に向かうタイムリミットの砂時計の砂は落ちることをやめない。
だからムシャクシャする時もあるんだけど、そんな時は今がパラダイスであることを思い出して明るい方に意識を向け、存分に〝生〟を楽しみたいものですね!
あ、あと、最後に。
死後の世界の魂のあり方には段階があります。
もし親族の方が亡くなられてから何年も経った後あなたの前に現れたら、霊体にとってこの世に来ることは簡単なことではありませんので、その方は現世で相当徳を積んだ、格の高い魂の持ち主ってことですよ。
以上、新倉イワ子の【あなたの知らない「あの世」】シリーズでした!